6月7日(火) 成田〜ニューヨーク


PM0:00、いつものように、妻がゆでてくれた蕎麦で、早めの昼食をとり12時丁度に家を出た。佐倉駅で成田空港までの切符(400円)を買うべく500円硬貨を投入すると、お釣りが200円出てきた。何かの間違いだろうと思いながら、その200円を財布に入れ終わった時、年輩のご婦人が私の券売機の前に来て、「200円のお釣りが出るはずなのに100円しか出ませんでした」と駅員に訴えているではないか。私は合点が行きそのご婦人に100円を渡した次第。こうして小さなハプニングから、私の旅は始まったのである。

PM1:00、成田空港のデルタ航空カウンターに到着。ここでのチェックイン手続きは、セルフサービスになっており、機械の画面に向かって滞在場所の住所等を自分で入力するようになっていた。最後にスーパーのレジでもらうレシートのような紙が出てくるとそれが搭乗券である。初めての人は戸惑うだろうなと思う。

出発前、自宅のパソコンで今日の飛行に変更がないことを確認していると、座席もすでに決められていた。その上で、「希望があれば若干の追加料金でエコノミー・コンフォトeconomy comfort)に変更できます」と書いてある。

エコノミー・コンフォトと言う用語自体が新しい出会いであったのでその内容を調べてみると、座席の足置き場が
10cm広くなっているのだそうだ。確かにエコノミークラスの座席は窮屈である。それが10cmでも広くなれば、ニューヨークまで13時間の飛行は、大分楽になるように思われる。バックパッカーの貧乏旅行を自認する小生としては、いささか抵抗を感じるが、老いの身をかばいたくなって来たのも事実である。ここは大枚160ドルを追加する事を決断する。

PM1:50

搭乗時間まで1時間ほどあるので、パソコンを取り出す。暇つぶしの必需品である。

今回のアメリカ旅行は、英語圏で行ってない、最後の国になっていたことが決め手になった。仕事でロスに2度行った事はあるが、観光旅行としての経験はなかった。

旅行の方法としては、やはり若い人達に混じってのアドベンチュアー・ツアー形式が希望である。インターネットで検索すると、希望を叶えてくれそうなサイトが見つかった。アメリカ大陸横断のアドベンチュアー・ツアーである。但し例によって年齢制限があり、35歳までとなっていた。私は同様のオーストラリア旅行に参加した経験から、「皆に迷惑をかけずに行動できると思うので、参加させて欲しい」と、メールを送った。

返事は「体力には問題が無くとも、全体の雰囲気が壊れるので許可できません。その代わり年齢制限のない、似たようなツアーがもうじき発表されますので、そちらに申し込まれる事を、お勧めします」と言うものであった。其処までハッキリ言われたのでは、引き下がるしかない。2ヶ月ほど待って今回のツアーに申し込んだ次第。ツアー料金は年齢制限のあるツアーより若干高く設定されていた。アメリカ横断のツアーなのに、企画本部はイギリスのロンドンである。インターネットでの募集であるから、本部が何処にあろうと問題は無いわけだ。

申し込んだ後、健康状態のチェックがあった。血圧は高くないか、20kgの荷物を運べるか。1日10km歩けるか。過去2年間に大きな病気はなかったか。食事や薬のアレルギーはないか。現在通院していないか。喘息、糖尿病、てんかんは持ってないか。うつ病等の精神的な問題はないか。ガンや腫瘍は大丈夫か。足や関節に問題は無いか等々。

幸いにも致命的な問題は抱えていないが、歳相応にあちこちに問題が無いわけではない。この歳になると明日も絶対に元気で居られるという自信はないが、「行ける所まで行ってみよう」という心境である。

空港内でパソコンを叩いていたのだが、飛行機の振動によってアイコンがあちらこちらに飛んでしまい、文章が書けない。ここからポメラ(ポケット・メモ・ライター)に切り替える。

出発直前になって、アドベンチュアー・ツアーのホームページを見ると、私が参加するツアーの金額が、2割ほどディスカウントされて掲示されていた。最大13人のツアーのはずだが、まだ売れ残っているということだ。結局何人が参加するのだろうか。

PM3:00、搭乗。

PM3:30、離陸。

成田を飛び立った飛行機は最初の20分間、東に向かって太平洋上へ出た。この後進路を北に変えてアリューシャン列島、アラスカ、カナダ上空を飛んでいく。

エコノミー席はほとんど満席状態なのに、私の周り(エコノミー・コンフォト)の席は空席が目立つ。これは追加料金を取られるから敬遠しているのだと考えることもできるが、それより何倍もするビジネスクラスがほぼ満席であることを考えると、やはりこの制度自体がまだ普及していないのではなかろうか。現に私自身が、自宅のパソコンで初めて知ったのだから。

機内は案の定かなり冷えている。早速配られたブランケットを足に掛ける。まだ持ち込んだジャンパーを着るほどではない。水平飛行になったところで、飲み物のサービス。私は「何か暖かいものを」と頼むと、ビールとかワインと言われることを期待していたのか、一瞬の間を置いて、「グリーン・ティー?」との反応。熱々の緑茶をありがたく頂戴した。

最初の機内食は、ご飯の上にチキンの照り焼きを乗せたもの、パン、野菜サラダ、ケーキ、コーヒーとまずまずのお味でした。

PM7:30、離陸から早くも4時間が経過した。キーボードを叩いていると時間がたつのを忘れている。まだ寝るには早すぎるので、この度の東日本大震災、大津波、福島原発事故について少々整理しておきたい。

まず震災と津波について:

私たちの年齢より若い者は、第2次大戦後に生まれ、たまたま大地震のない平和な時代を生きてきた。少し歴史をひもとけば日本は何度も天変地妖に犯されてきたことが分かる。我々はそういう国土世間に住んでいると言うことをすっかり忘れていた。だから、あんなに大きな津波がくるとは予想さえできず、多くの人が逃げ遅れて犠牲になってしまった。マグニチュード9レベルの地震は1000年に1度かも知れないが、8レベルの地震なら百年に1度は起きている。そのことを再認識し、日本人はそういう国土に生きていることを子々孫々に語り伝えねばならない。

こういう大前提に立つならば、福島原発の容認が適当であったのか否かは、議論するまでもないであろう。地震に耐えられず、津波を防げず、「想定外でした」とは寝言としか思えない。その程度の危機管理しか出来ていない原発なら、即刻廃止すべきであろう。

科学は諸刃の剣である。科学によって発展し、科学によって衰亡する。最近の新聞に「火遊びを 覚えた猿が 火を消せず」と言う川柳が掲載されていた。残念ではあるが、言い得て妙と言わねばなるまい。自信過剰が油断を招いたとも言えようか。返す返すも残念ではあるが、取り返しのつかないことを、我々は猿にも等しい連中に委ねていたということだ。

私がまだ20才代の頃、一介の電気工事屋であった叔父が、「原子力は、たとえ平和利用であっても、反対すべきである」と確信を持って言っていたことを思い出す。彼が反対していたのは、日本が地震国であるからではない。例え、無事に核燃料を使用し終わっても、その始末がやっかいなのだ。使用済み核燃料であっても、何年にもわたって放射能を出し続けるからである。まして日本は世界に冠たる地震国である。今回のようなことを想定できなかったこと自体が人災である。

ニュージーランドには原発がない。主力は水力発電であると聞いている。理由の1つは、彼の国も地震大国であり、国民はそのことを十分認識しているのである。そして私がホームステイしていた時、ホストに「南北の島を海底トンネルでつないだら良いと思うが」と言うと、「ニュージーランドは地震が多いから、海底トンネルを掘るには無理がある」と言う言葉が返ってきたのであった。経済力では日本の後塵を拝しているようだが、彼らは欲張りではない。「置かれた境遇を受け入れ、身の丈にあったことをするなかで、喜びを見い出している」と感じるのは、私だけであろうか。

PM11:00、夜食のサービス。ミニ菓子パン、フルーツ、ヨーグルト。それにしてもこの飛行機には美人のキャビン・アテンダントが見あたらない!何処にでもいるオバサン風な人ばかりだ。過酷な経費削減がこんな所にも現れるのだろうか?イヤ失礼な事を言いました。


6月8日(水) 成田〜ニューヨーク


AM2:00、朝食の機内サービス。

ハムエッグ、ポテト、パン、果物、オレンジジュース、コーヒー。ハムの厚さが5mm程あり、美味しかった。

機内は冷えており、ジャンパーを持ち込んでよかった。

AM4:00、アメリカ、ニューヨークのJFK国際空港に安着。離陸から着陸までのフライト時間は12時間30分であった。東京とニューヨーク間の時差は13時間で現地時間では前日(6月7日)のPM:00である。


6月7日(火) ニューヨーク(JFK空港からユース・ホステルへ)


PM3:40、空港が混んでいるようで機内に閉じ込められたまま出られない。結局ドアーが開かれたのは40分後であった。

まずパスポートの審査:外国人の列に並んで1人ずつチェックされている。両手の指紋を取られ、眼鏡と帽子をはずしてのカメラ撮影、かなり厳重なチェックである。ある係官は、「どんな変装でも見破ってやるぞ」みたいなすごい形相だ。私は型どおりのチェックで終わった。

次は、バゲッジカウンターで荷物をピックアップし税関申告だ。私は例によって若干の調味料は持ち込んでいたが、申告するものは有りませんと提出した。係官は申告書を見ただけで通過させてくれた。

いよいよマンハッタンManhattan)のインターナショナル・ホステルを目指す。案内書には行き方が色々書いてある。タクシー、鉄道の乗り継ぎ、シャトルバス等である。私は自分にとってはシャトルバスが最もリーズナブルと考え、近くに居たスタッフにシャトルバスの乗り場を聞いた。大体の方向を教えてくれたので、そちらの方へ歩いていると、空港のスタッフらしい男が「シャトルバスか?」と声を掛けてきた。「そうです」と言うと、何処かに電話をしている。「シャトルバスに乗りたい人が1人居るから」みたいな内容だ。随分タイミングがいいなと思いながら、彼の先導に付いて行くこと数分。

距離にして300m位歩いたであろうか。こんな所まで案内してくれるとは、親切な事だと思った。着いた所は空港の駐車場みたいな所である。「シャトルバスがすぐ来るから、ここで待っていなさい」と言う。間も無くワンボックスカーが現れて、運転手が「インターナショナル・ホステルに行く人か?」と聞くので「そうです」と言うと、ドアーを開けてくれた。

シャトルバスと言うと、普通10人前後の人を乗せて走るものだが、この車は私一人を乗せて走り出した。「たった一人のシャトルバスとは運が良いな」と思いながらも、何と無く違和感もあった。しかし「シャトルバスも国によって色々な形式があるのかな」と思いながら乗っていると、「このレシートに名前と行き先を書いてくれ」と言って小さな紙を差し出してくる。「客の方がレシートを記入するのも変だな」と思いながらも言われるとおりに記入して「金額は幾らですか?」と聞くと、「そこは目的地に着いてから私が記入する」と言ってから、電話を始めた。

「料金は幾らだ?96ドルだな?OK」とか聞えてくる。「96ドルは高すぎるではないか。私は1617ドル位と聞いてきたが」「それはマンハッタンの途中までしか行かないシャトルバスだ。地下鉄に乗り換えて行かなければならないよ。これは直接目的地まで行くから高いのだ」と言う。「しかし私は納得できない」と言うと「じゃあ、空港に戻るか」と言う。私はタクシー料金より高い、こんな忌々しい車に乗ったのでは後味が悪くなると思い、「空港に戻ってくれ」と言った。この間、車は既にかなりの距離を走っている。素直に空港へ戻ってくれるのか不安もあったが、運賃も請求されず問題は無かった。

しかし東京より暑いと感じる中で、最初からのトラブルである。この手の無認可の白タクに、してやられた人も居るのだろうなと思った。気を取り直して空港のインフォーメーションセンターで「地下鉄を乗り継いでマンハッタンのホステルまで行きたいが」と言うと「駅はすぐ其処だが2時間掛かるよ」と言う。案内書にも2時間と書いてあったが、やっぱり本当なのだ。「どうしてそんなに時間が掛かるの?」と聞くと、どうやら単線だからと言う事らしい。幾ら車が発達した国とはいえ、国際空港からダウンタウンまで2時間は有り得ないでしょう!

最初の計画通り、シャトルバスを探す事にして空港のスタッフに尋ねると「私は空港内のことしか分からないので、外にいる人に聞いてください」と言う。そんなもんかと訝りながら外へ出て、それらしき人に聞く。2人目に聞いた人が運良くシャトルバスの運転手であった。今度は間違いなさそうだ。

10人乗りのワゴン車に「シャトルバス」と書かれていて、既に満席状態であった。運転手は明るく「インターナショナル・ホステルなら私も居たことがあるよ」と言いながら、私と若い女性を押し込んで発車した。そう、これがシャトルバスだよ。それにしても先ほどはまんまとやられる所であった。油断できないなと思った。

PM4:45、正規のシャトルバスが発車。乗客は10人で満席。私の両隣は、50歳前後の男性と、20歳代の女性。男性は「ロスの母の所に行ってきた帰りで、マンハッタンの近辺に住んでいる。デザイン関係の仕事をしていて、ずっとこの辺で暮らしてきたが、あまり旅行はしない。ましてこれからあなたが行こうとしているツアーなど考えた事もない」と言う。旅程表を見せてあげたら、楽しそうだなと言いながらしげしげと見ていた。

私と一緒に最後に乗り込んで、右隣に座っている女性は「トルコのイスタンブールから来ました。10時間掛かりました。2日間のオリエンテーションの後、2ヶ月間スーパーマーケットで働き、その後1ヶ月間旅行します」と言う。日本で言うワーキングホリデーのようなものか。「3年前にトルコのカッパドキアに行って来ました」と言うと「私はまだ行った事がありません」と言う。上手な英語なので「普段はどういう時に英語を使うのか」と聞くと「普段はトルコ語だから英語は学校だけです」と言っていた。兄のいる20歳の学生であった。

私の前席にいたのは、オーストラリアのシドニーから来た青年で、私と同じホステルに行くと言う。乗客が隣の女性を含めて残り3人になった時、運転手が女性に「君はなんと言うホテルに行くんだったかな」と聞いている。女性が答えると「そこは此処からまだ遠いな。それに聞いたことのないホテルだよ」と言っている。そんなことってあるのかなと思っていると、「チョッと、あそこに立っている人に聞いてみよう」と言って、大声で話している。

窓は開いてないから外の人に聞えないはずだがと不思議に思っていると、「あっ、此処のホテルだ。君はラッキーだったよ」とか言っている。最初から分かっていたのに、ふざけてチョッとからかっていた訳だ。最後に我々のホステルに到着。料金を聞くと18.50ドルだと言う。20ドルを払って陽気なジャマイカ出身の運転手に別れを告げた。途中マンハッタンの町並みを眺めてきたが、特に印象に残る所は見当たらなかった。東京の街をもう少しごみごみさせた様な感じだ。

PM6:00、アムステルダム通り、W103Stにあるホステル(Hostelling Internationalに到着。予想通り大きなホステルだ。部屋のキーと朝食券をもらって2階の自室へ。2階と言っても日本では3階になる。1階のフロントはゼロ階になるようで、話には聞いていたが実際の場面に遭遇するとやはり戸惑ってしまう。部屋は男性の6人部屋。部屋に入って荷物を下ろした時には誰もいなかった。私はさすがに疲れ切っていたので、とりあえずベッドで横になった。

  

                                                  Hostelling International—New York City

パソコンの状態が悪いのでこれからの文章作成はポメラで行うことに決める。昨夜も、一段落したので終わろうかと思った矢先に勝手に画面が消えてしまい、それまで書いていた文章が消えてしまった。

PM8:00、一息寝ると大分楽になったので、400m程離れた近くのスーパーへ買い出しに行った。しかし時差と疲れが残っていて、料理して食べようと言う気になれず、水と牛乳だけしか買わなかった。スーパーの出口にはテイクアウト用のバイキングが並んでいたので、その中から見繕って買った。5.15ドル。スーパーの2階には、食べる所もあるというのでそこで食べていくことにする。

食事をしている時、何度か床が上下に揺れているように感じた。建て付けが悪いのか、気のせいなのか微妙なところだ。

PM9:30、ホステルに戻りシャワーを浴びて歯磨きをしていると、今度はホステルの床が上下しているような気分になると同時に、気分が悪くなってきた。もう寝るしかないと思い、ベッドに横になったが、気分の悪さは改善せず、挙げ句は心臓の鼓動が早くなって来たようにも思える。「この分だとこの先のアドベンチュアー・ツアーに参加することは無理かな」と考えるようであった。気分が落ち込みながらも、「もしかしたら、これは飛行中の振動が長かったのでそれが体に残っているのかな、つまり船酔いにあった時、船から下りても揺れているように感じるような」と考えが至った後、寝てしまったようである。  


           

6月8日(水) ニューヨーク(ブロンクス、ゴスペル・サービス)


AM2:00、同室の青年がゴソゴソやっている音で目を覚ました。時差の影響でこれ以上眠れそうもないのと、気分も少し改善していたので、パソコンを持って談話室へ移動する。少々書き溜めたので、妻にメールで送ろうと試みたが、安物のパソコンがうまく作動してくれない。気分が優れないときのパソコンの不具合は、本当に困りものである。

AM7:00、あらかじめチェックインの時にもらっていた朝食券を持って食堂を探す。地下1階はキッチン、地上1階は団体さんの食堂、私の食堂は、ロビー横にある売店であった。普段は売店だが、朝食の時はここがカウンターに変わる。ホステルも大きいと食堂を探すだけでも一苦労である。おまけにここでは、フロントのロビーがゼロ階で、1階は日本での2階になるので、戸惑ってしまう。

さて楽しみにしている肝心の朝食だが、どんなものが出てくるのか。食券には一通り書いてあるが、メニューは同じでも質的にはピンキリが有るから。私はよく分からないまま、ベーグルパンのクリームサンドとバナナ、コーヒーを選択した。感想は、可でもなく不可でもなしと言うところ。食後はAM9:00までパソコンを叩いて、本日のツアーに参加する準備に入る。

AM10:00、今朝のホステル主催のツアーは、参加費が10ドル。地下鉄でヤンキースタジアムへ。その後その周辺のブロンクス地区を散策する。ガイドは77才のロシア系のおじいさん。歩くのもおぼつかないように見えるが、オッとどっこい!なかなか元気です。

         

                                                     Tour guide

まず最寄りの地下鉄の駅でメトロカードを買う。1週間使えるカードが29ドル也。途中1回乗り換えてヤンキースタジアム(Yankee Stadium)へ。古い球場の隣に、近代的な新しい球場が出来ていた。ベーブルースが活躍し、最近では日本人の松井選手も頑張っていた。野球の殿堂のような所だから、野球少年にとってはエキサイティングな見学であろうが、野球にそれほど関心のない小生にとっては、「こんなものか」で終わり!球場の中には入れず、ニューヨーク・ヤンキースのロゴマークが入ったTシャツや、帽子等のおみやげグッズ店を見るだけでした。

        

                                                    Yankee Stadium

その後、周辺のブロンクス地区をブラリブラリ。すぐ近くに、ハインリッヒ・ハイネHeinrich Heine)の像が建っていた。ハイネはドイツの詩人で、ローレライの作詞で有名だが、彼の像がどうしてここにあるのだろうか。なんでもアメリカの開拓時代に、ドイツ人がこのブロンクス地区に入って来た事と関係があるようだ。ガイドのじいさんがいろいろ話していたが、聞き取れなかった。

        

                                                        Heinrich Heine

ブロンクス地区(The Bronx)はマンハッタン島の北に位置しており、開拓時代からの歴史を持っている。「古い建築物と新しい建築物、そして閑静なところと雑然としたところが混在している」と言うぐらいで特別印象的な所はなかった。只、一度みておくと、今後ブロンクスの話がでたときに、理解しやすくなると思う。

     

                                                                     Bronx-1

ぶらぶら歩きながら、同行の参加者と挨拶が出来たのだが、その中に日系3世のブラジル人青年がいて、親しくなった。祖父が日本の中部方面からコーヒー農園の開拓者として移民した。父は日本語が出来たが彼は全く話せない。お互いにたどたどしい英語でのやりとりである。ニューヨークに来て気がつくのは、旅行者の中に、ブラジル、アルゼンチン等の南米からの旅行者が多いことである。彼らにとってニューヨークは比較的身近な存在なのであろう。


        
                                                            Bronx-2

PM1:30、地下鉄を乗り継いでホステルに帰ってきた。今日の天気は晴れ。気温は30度もあろうかと思うぐらいに暑かった。同行者の中には、ぐったりと疲れて、昼食に行く元気もなく、ベッドで横になりたいと言う人もいた。そんな中、私は徐々に元気を取り戻しつつあった。昼食は先のブラジル人3世の青年と、同じくブラジル人の中年女性と3人で近くのイタリアレストランへ行き、ピザとコーラを頼んだ。おひとり様10ドルで、まずまずのお味でした。

PM2:30、部屋に戻って、ベッドで横になる。1時間ほどで目が覚め、パソコンを持って談話室へ。メールの送受信を試みるが、うまく行かない。なにかメールソフトに異常があるらしい。受信は出来ているのだが、送信が出来ない。メカに弱い小生としては、解決の手段を思いつかない。

PM6:00、本日2回目のツアーは、ゴスペル・サービスGospel Service)の見学である。ガイドは午前中と同じ77歳のおじいさん。今度は長ズボンに襟の付いたシャツで現れた。そういえば、午前中は半ズボンにスポーツシャツの姿であった。地下鉄に乗って、ハーレム(Harlem)地区へ行き、そこのバプティスト教会での行事に参加する。毎週水曜日の夜と、日曜日の朝に催されている。このツアーに参加するに当たって、若干服装の注意があったが「短パン、Tシャツでの参加はご遠慮してください」位の軽いものであった。そして教会に入る時には、「撮影の禁止と携帯電話の電源を切るように」との注意があった。

         

                                        Gospel service

PM7:00、ゴスペル・サービスの開始。壇上に男女6人ずつ、12人の歌い手が居り、壇の下には、彼らを指揮しまとめる男性が1人いる。壇上にも1人の白人がいるが、全体としては90%が黒人である。楽器伴奏にピアノ、ギター、ドラム、オルガンの奏者もスタンバイである。

ゴスペルは同じようなリズムで繰り返され、徐々に盛り上がっていく。手を叩き、足を踏みならして、腹の底から声を出す。次第に参加者も立ち上がって、それに合わせて歌い手を叩く。最後は恍惚状態に迄行く。これが約40分間続く。我々の座席の前には聖書とゴスペルの曲集がおいてあるが、曲集には700曲ほどが掲載されていた。いずれもイエス・キリストを讃えたものである。

その後、スーツ姿の黒人男性が、聖書の1節を朗読した後、説教を始めた。一方の手をポケットに入れたままであったり、両手を上に挙げたりジェスチュアーたっぷり、情熱的に、自分が自分の話に酔っている風にも見える。15分間の演説のような説教が終わると、再びゴスペルの合唱だ。今度も前半以上の迫力と情熱を持って歌い挙げる。しかし小生にとっては不謹慎にも、時差の影響も有って子守歌になってしまった。最後は両隣の人と手をつなぎ、ハグをして、前後の人と握手をする。

PM8:20、すべてが終わり現地解散になった。PM8:45、地下鉄を乗り継いで、ホステルに戻ってきた。

         

                                                               Metro

PM9:00、夕食に中華料理を食べたいと探していると、目の前にそれらしい看板があった。行ってみると間違いなく中華料理の店であった。メニューからワンタンスープの大を注文。出てきたのはとても一人分とは思えないほど大容量のスープであった。中身は我々の認識から見れば、ワンタンと言うより、餃子と言った方が分かりやすいと思う。その餃子もどっさり10個ほど入っていた。お味もまずまずで、値段はわずかに3ドルでした。

PM10:00、シャワーを浴びてパソコンを叩く。ここでまたトラブル。そろそろ更新をかけて終了しようと思った時、突然画面が消えて、この2時間ほどに書いたものが消えてしまったのである。その徒労感は何とも空しい。2年以上にわたり大変重宝して来たが、もうこのパソコンを使う事は止めた方が良いと思った。

PM12:00、就寝


6月9日(木) ニューヨーク(セントラル・パーク、ミッドタウン)    

       

AM4:00、起床。時差の影響でこんな時間に目が覚める。起床、就寝はなるべく自然にしている。つまり眠たくなったら寝て、起きたくなったら起きる。無駄な抵抗はしない。

昨夜の突然消えてしまった所から、ポメラ(ポケット・メモ・ライター)を使って旅行記の書き直しを始める。こんな事を想定して準備していたわけではないが、ポメラを持って来て良かった!文章の作成はストレス無く進められる。

AM6:00、談話室で旅行記を書いていたら、中年の女性から「日本の方ですか」と声をかけられた。彼女は「札幌在住、一人旅をしていて、昨晩ここに来た」と言う。欧米では、中年女性の1人旅は珍しくないが、日本人に出会うことは極めて珍しい。このホステルの1日先輩として、聞かれることに答え、これまでの旅行体験を若干ご披露した次第。彼女も、旅行が何よりの楽しみであると話していた。

AM7:00、朝食。昨日と同じメニューのベーグル、バナナ、コーヒー。変わったのはクリームチーズが、バターになっただけ。食後、旅行記の続きを書く。

AM9:30、臨時のツアーがAM10:00に出発すると聞いて、急いで準備をしてロビーで待っていたが、ガイドは現れなかった。「こんないい加減な事もあるのか」とがっかり。気を取り直してAM11:00のツアーを待っていると、これにもガイドが現れず。受付の女性が心当たりに電話をしているが、状況はつかめないでいる。

AM11:15、しびれを切らして、一人で外出。幸い少しずつ地理感をつかめてきていたので、近くのセントラル・パークCentral Park)を目指した。文字通りマンハッタン島の中央に位置する広大な公園だ。南北約4km、東西約800m。19世紀半ばから約20年の歳月をかけて造園された。園内には芝生広場、散策道、湖沼が配され、自由に遊ぶことが出来る。

         

                Central Park-1

私はこの中にある周囲約2kmのジャッキー・オナシスと名付けられた貯水池Jacqueline Kennedy Onassis Reservoir)を約1時間かけて一周した。多くの若者がランニングで汗を流していた。孫をベビーカーに乗せて、散策中の老夫婦。水着姿でエクササイズ中の女性、寝ころんで読書中の若者、テニスに汗を流している人等、様々な人々が楽しんでいた。

         

                         Jacqueline Kennedy Onassis Reservoir

                                                           Central Park-2

        

                                                        Grand Parents

PM1:00、ホステルに戻り昼食。昨夜と同じ中華店でエビフライとチャーハンのテイクアウト。これをコーラで胃袋へ。エビフライには、これでもかと言うほど厚い衣が付いていて、全部は食べきれなかった。5.75ドル也。

PM3:00ミッドタウン見学のツアーに参加。地下鉄に乗って5駅先のリンカーン・センター(Lincoln Center)で降りる。ここからはこれまでに何度も耳にしたことのある建物のオンパレードだ。ジュリアード音楽院、メトロポリタン・オペラハウス(Metropolitan Opera House)、CNN等。まだ6月だというのに、外を歩いていると熱風が吹いているのかと思うほどの暑さだ。

         
                                    Metropolitan Opera House

コロンバス・サークルColumbus Circle)には、ひと際大きなコロンブス像が建っている。アメリカ新大陸の発見者を顕彰するものとしては当然の事か。ここから今朝一人で歩いたセントラル・パークの南端を歩く。北側と違って、ダウンタウンに接しているため、公園内は人が多く、とても賑やかである。歩きながら近くに建ち並ぶ超高層ビルSkyscrapers)の名前が紹介された。GM、ソニー、IBM、トランプ等々。

     

                                                      Columbus Circle

          

                                                         Skyscrapers

再び公園の外に出ると、プラザホテルThe Plaza)に入っていく。ここには世界の名だたる人々が宿泊滞在している。廊下の壁には当時の写真が飾られていた。オナシス、ブリジッドバルドー、ビートルズ、フランクシナトラ、キッシンジャー等々。東京における帝国ホテルのようなものか。

         

     The Plaza-1     

         

                                                           The Plaza-2

さらに少し歩くと5番街だ。最初の見学がティファニーTiffany Co)。私の様な境遇の者が来る店で無いことは十分承知の上で、店内へ。「猫に小判。価値が分からない。関心がない。ともかく居心地が良くない」等と考えながら、宝石を見るでもなく歩いていたら、ガイドを見失ってしまった。上の階に行ったのかと思い、エレベーターで上がってみたが見当たらなかった。念のため店員さんに聞いてみたが、分かろうはずもない。
 

        

                                                               Tiffany Co.

「残念!こうなったら一人でホステルに戻るしかない。しかし待てよ、その前に5番街を一通り歩いてみよう」と言うことで、一人でホッツキ歩くも、お呼びでない店ばかり。ブルガリ、ピアジェ、ミキモト、プラダ、グッチ、オメガ等々。店の名前だけ確認して終わり。5番街から地下鉄の駅がある8番街まで歩き、地下鉄1号線に乗ってPM6:00、無事ホステルへ。3時間の街歩きは疲れました。

シャワーを浴びてベッドへ。仮眠のつもりが、目が覚めたのは、PM11:00を回っていた。丁度、相部屋の青年たちがそれぞれの外出から戻って来た時であった。部屋がギンギンに冷えていて、寝ている時に足が吊ってしまった。

相部屋の青年たち:

1、カリフォルニアのUCLA大学で医学を勉強中のイタリア人、30歳。英語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語に堪能。同室のフランス人が言うには、彼のフランス語は、完璧だそうだ。昨日も今日も20kmほど歩いて来たと言う。エネルギッシュである。

2、パリでマクドナルドの店長をしているフランス人、25歳。3歳の子供がいる。いかにもフランス人と言う顔立ち。フランス人らしく彼の英語は流暢ではない。非常に真面目な人柄である。

3、ウィンスコンシン州で建築デザインをしている、アメリカ人、40歳。頭の毛を中央に立てて鶏冠の様にし、ピンク色に染めているので、第1印象はどんな変人かと思ったが、話してみると普通の考えを持った男性である。「これから飲みに行かないか」とのイタリア人の誘いをやんわり断っていた。

仮眠の後で夕食にしようと考えていたが、思いの外熟睡したので夕食のチャンスを逃してしまった。しかし、体調は徐々に回復しつつある。

談話室に移動して、インターネットを試みたが繋がらない。多分、今の時間帯は回線が混んでいるのだと思う。予想したとおり、3時間後に再トライしたらすんなり繋がった。旅行記を書き終わったら、AM4:00になっていた。就寝。


6月10日(金) ニューヨーク(セントラル・パーク)


AM9:00、起床。昨日と同様の朝食。つまり、バターを塗ったベーグル、コーヒー、リンゴ。今日はバナナの代わりにリンゴを食べたが、これが大きくて新鮮で美味しかった。隣の青年が、ハムエッグを挟んだベーグルを食べていたので、聞いてみると「追加料金を払えばこれが食べられる。毎日同じ物だと飽きるから」と言っていた。オーストラリアで不動産鑑定の仕事をしているそうだ。

AM11:00、今日のツアーは、ハーレムとセントラル・パークの2つが同じ時間に有るので、どちらにするか迷ったあげく、セントラル・パークを選択した。セントラル・パークの一部は昨日見たが、もう少し見たいと思ったから。ハーレムは一昨日のゴスペル・サービスで行ったことにして。

ハーレムのガイドは、ゴスペル・サービスの時と同じ爺さん。セントラル・パークのガイドは、のっぽのボブ(Bob: Robert)だ。「38歳の弟が千葉県で英語の教師をしている」と言う。ボブは60歳ぐらいに見えたので、ずいぶん年の離れた弟だなと思っていたら、ボブの年齢は40歳だと言う。後で分かったことだが、3年前に大きなガンの手術をしたのだそうだ。体調もまだ万全とは言えず、天候に大きく影響されると言う。

         

                                                                     Bob

まず、昨日歩いたジャッキー・オナシス貯水池へ。ジャッキー・オナシスの名前は、彼女がニューヨーク市の保全に貢献したことと、生前よくこの貯水池の周りを歩いていた事にちなんで名付けられた。それ以前、この人工の貯水池に名前はなかったそうだ。
 

         

                                 Jacqueline Kennedy Onassis Reservoir-2

セントラル・パークは長い年月と多くの献身的なボランティアによって、あちらの池を埋めて、こちらの池を掘ったりして、今日のように整備されてきたが、今でも公園のメンテナンスに年間8千万ドルの予算を付けているという。それでも2年前の嵐の時には、樹齢数百年の大木が数多く倒れるようなことがあったそうだ。そして、公園の所々に存在する岩には、氷河期の名残を示すように、氷河に削られた痕跡が残っている。また桜といえばワシントンDCのポトマック河畔が有名であるが、こちらの公園にもたくさんの桜の木が有り、その季節はさぞかし綺麗だろうなと思う。

            

                                                         Central park-3

昨夜は、この公園で5000人の野外コンサートがあり、場所によっては一般人の入場が制限されたと言う。今日はその後片づけがなされていた。

亀がたくさん生息している池があって(Turtle Pond)、その湖畔には美しいベルヴェデーレ城Belvedere Castle)が建っている。これはスコットランドの古城をモチーフにしたと言われる石造りの城。公園の中央に位置し、開園当初からこの場所に建っている。

     

                                                      Belvedere Castle

次に現れたのはシェークスピア・ガーデンShakespeare Garden)。ここにはシェークスピアの小説に出てくる花がたくさん植えられている。その一つに、ローズマリー(Rosemary)があり、芳香を放っていた。ローズマリーは女性の名前に多いが、ニュージーランドでのホストファミリーの奥さんもこの名前であった。

     

Shakespeare Garden

        

Congratulation!

散策を続けていると、湖畔から晴れやかな声がする。どうやらカップルの誕生らしい。「結婚式ですか?」と聞いてみると「男性がプロポーズをしたら、女性が承諾したので、ワインで祝福しているところだ」と言う。

     

                                                           Bow Bridge

次に出会ったのは、「笹川チェリー公園」。広場の周りに桜が植えられた公園で、ブロンズ製の銘板に笹川良一の名前が刻まれていた。この公園の下には池があり、美しい虹型の橋(Bow Bridge)が架けられていた。

     
 
                                                      Bethesda Fountain

次はベセスダの噴水Bethesda Fountain)。これは羽を広げた水の天使、ベセスダの像が建つ噴水。水音が心地よい石畳の円形広場になっており、大勢の見物客で賑わっている。映画の舞台にも度々登場しているそうだ。隣接のアーケードではストリート演奏で、ビートルズのイマジンを歌っていた。

少し行くと、木々の美しいモールThe Mall)が有り、その木の下で、似顔絵、サキソホーン、演舞等、様々なパフォーマンスが繰り広げられていた。ここを通り過ぎるとシープ・メドウ(Sheep Meadow)の芝生公園に来る。昔はここに羊が放牧されていたと言う。

      

The Mall

         
                                              Sheep Meadow

         

Strawberry Fields

最後に訪れたのは、ストローベリー・フィールズ(Strawberry Fields)。ジョン・レノンを偲び、彼の作った名曲にちなんだモザイクの「イマジンの碑」がある庭園で、オノ・ヨーコ・レノンの名前が刻まれた銘板がある。

     

                                                                Imagine

ここを最後に本日のツアーは終了。公園を出た所に、1980年にジョン・レノンが銃撃された建物(ダコタ・アパートメント:Dakota House)が有った。警備人がいて一般の人は中に入れない。

         

                                                        Dakota House-1

            

                                                           Dakota House-2

PM2:30、ガイドのボブに別れを告げ、地下鉄でホステルに戻る。途中で鶏肉うどんをテイクアウト。2.75ドル也。PM4:00まで休憩。PM6:00まで、ポメラ。
PM9:00まで睡眠。その後、シャワーと歯磨きを済ませてから再びポメラ。

談話室で日記を書いていたら、一昨日のツアーに同行したサンフランシスコ在住の婦人が来て、しばし談話。それぞれが今日の見学について披露しあった。その中で彼女は、私の英語に対して、いくつかの間違いを指摘してくれた。今日のツアー・リーダーの名前を「ボブ」と言ったら「バブ」と発音するんだと訂正された。こんな些細なことでも、注意されないと気が付かないものです。

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